「医系技官」という言葉は、ふだんのニュースではあまり耳にしませんが、厚生労働省や文部科学省、防衛省などで医療・公衆衛生・医学教育・防衛医療政策を支えている“医師資格を持つ官僚”を指します。ここでは、明治維新から防衛医科大学校が設立される1970年代までをたどりながら、日本の医系技官(とくに軍医・自衛隊医官を含む広い意味での「医療系エキスパート官僚」)がどのように養成されてきたのかを整理します。
目次
明治維新と軍医制度・医療行政の出発点
近代国家建設と西洋医学の導入
明治維新後、新政府は近代国家としての体制整備を急ぎ、その一環として医療制度の近代化と西洋医学の導入を進めました。
- 1874年(明治7年):「医制」の公布 日本で初めての近代的医事法規であり、医師資格制度や西洋医学教育の枠組みが整えられました。
- 医療行政・医学教育は当初文部省が所管していましたが、1875年(明治8年)には医務局が内務省に移管され「衛生局」と改称されるなど、行政組織も再編されていきます。
この段階では、近代的な公衆衛生行政と医療行政の芽生えとともに、後の医系技官につながる「医師資格を持つ行政官」の原型が少しずつ形を取り始めました。
軍隊創設と軍医制度の構築
同じく明治初期には、常備軍の整備に伴って兵士の疾患治療や衛生管理を担う軍医制度の構築も急務となりました。
- ドイツ人軍医ミュルレル、ホフマンらの協力により、ドイツ式の医学・軍医制度が導入される。
- 陸軍・海軍それぞれに軍医部門が設けられ、近代的軍医制度の基盤が築かれました。
陸軍本病院と松本順
明治期に東京に設立された陸軍本病院(写真イメージ)。戊辰戦争後の明治元年に兵隊仮病院が設けられ、1871年(明治4年)には兵部省内に「軍医寮」附属の本病院(のちの陸軍本病院)が創設されました。
同年、松本順が兵部省病院御用掛となり、のちに軍医頭(ぐんいのかみ)に就任して陸軍軍医制度の整備を主導します。1873年(明治6年)には陸軍軍医総監(陸軍少将相当)から軍医補(陸軍少尉相当)までの階級が定められ、軍医将校としての身分・序列も制度化されました。
海軍における軍医制度の整備
帝国海軍でも、1872年(明治5年)に戸塚文海が海軍省の医務を担当し、翌年には海軍大医監(海軍中佐相当)に就任するなど、独自の軍医制度が整えられていきました。
こうして、明治初期には陸海軍の医療体制が急速に整備され、軍医を養成・確保するための教育機関や制度が整っていきます。
帝国陸軍における軍医養成制度の発展
軍直轄の軍医学校から大学委託へ
創成期の帝国陸軍では、軍医寮(のち陸軍医務局)が中心となり、陸軍軍医学校を設置して軍直轄で軍医を育成していました。
しかし高等教育機関が整備されるにつれ、陸軍は自前の医学教育から、大学医学部や医学専門学校(医専)卒業者を採用する方式へと移行します。その中核となったのが「陸軍軍医委託生」制度です。
- 医学部・医専在学中の学生から適性のある者を選抜し、学費を支給。
- 委託生は毎年夏休みに陸軍部隊に入営し、歩兵を中心とした基礎軍事訓練や乗馬訓練を受ける。
- 卒業(医師免許取得)と同時に陸軍軍医見習士官となり、約3か月の見習士官教育を受けた後、陸軍軍医学校に入校して1年間の専門教育を受講。
軍医学校卒業時には、
- 大学卒業者:陸軍軍医中尉
- 医専卒業者:陸軍軍医少尉
として任官し、正式な軍医将校となりました。優秀な将校には、さらに1年間の上級課程(甲種学生課程)で高度な軍医教育を行う仕組みも整備されていました。
予備役軍医・歯科医将校の制度
陸軍では、常備軍医に加えて平時から民間医師を予備役軍医として確保する制度も発達しました。
- 日中戦争以前:一年志願兵制度を通じて医師を予備将校に編入。
- 1932年(昭和7年)から:幹部候補生制度に改められ、医師免許をもつ者が一定の軍事教練後に衛生部将校となる仕組みに。
さらに、戦局の拡大に伴い医師不足が深刻化すると、1937年(昭和12年)以降、45歳以下の開業医などを対象に短期訓練後に軍医見習士官に任官させる軍医予備員制度も設けられました。短期の基礎訓練後、ただちに軍医見習士官とするこの制度は、軍医不足の緩和に一定の役割を果たしました。
また、長年の課題であった歯科医将校については、1940年(昭和15年)に勅令第213号によって陸軍歯科医将校制度が正式に発足。歯科医専学生から委託生を選抜する点など、採用方法は軍医とほぼ同様であり、終戦までに現役歯科医将校は約30名が任官したとされています。
帝国海軍の軍医養成制度と特色
海軍軍医科委託生制度
帝国海軍も陸軍と同じく、大学医学部や医専と連携した軍医養成システムを構築しました。その中心となったのが「海軍軍医科委託生」制度です。
- 医学部在学中の学生を委託生として採用。
- 卒業と同時に海軍軍医見習尉官として任官。
- 大学卒業者は海軍軍医中尉、医専卒業者は海軍軍医少尉となる。
任官後は、まず海軍砲術学校で基礎軍事教育を受け、その後海軍軍医学校で約1年間の専門教育を修了して正式な軍医となりました。
陸軍との違いとして、海軍では学生時代に長期の入営訓練は課さず、月額約10円の手当を支給する代わりに、必要に応じて軍艦見学などを行う程度とされていました。学業を優先させる方針がとられていた点が特徴です。
予備役軍医・歯科医将校
海軍においても民間医師を活用するための予備役軍医制度が整備されました。
- 有資格の医師を対象に軍医見習尉官(少尉候補生相当)の公募試験を実施。
- 合格者は砲術学校などで軍事教育を受けたのち、海軍軍医学校で専門訓練を受講。
- その後、大学・医専卒の区別なく予備海軍軍医少尉として任官する点が陸軍との相違点でした。
また、陸軍と同様に「二年現役軍医制度」(短期現役制度)も存在し、希望者が2年間だけ現役将校として勤務した後、予備役に編入される仕組みも整えられていました。
一方、歯科医将校制度は陸軍よりやや遅れて整備され、1942年(昭和17年)に海軍歯科医将校制度が発足。終戦までに9期生までの歯科医見習尉官が採用されています。
戦時下の医学教育拡充と「医系技官」の台頭
医専の増設と戦時体制下の医師養成
日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本の医療制度は戦時体制に組み込まれ、膨大な数の医療人材が必要となりました。
- 軍と政府は連携し、医学専門学校(医専)の増設によって医師養成の加速を図る。
- 短期間で実務的な医師を養成することを目的とし、軍医や国内の医師不足対策に位置づけられた。
しかし、戦局が悪化すると、それでも医師不足は解消されず、多くの医学生・開業医が軍医・衛生兵として戦地に赴く状況となりました。
厚生省設置と医系技官の登場
軍以外の政府部門でも、医師の専門知識を行政に活かす医系技官が台頭してきます。
- 1938年(昭和13年):内務省衛生局などを改組して厚生省が設置。
- 厚生省には医師資格を持つ官僚が多数登用され、戦時下の感染症対策や国民保健政策などに従事。
文部省でも、医学教育行政を担当する医系技官が配置され、戦時下の医専監督や戦後を見据えた教育改革準備にあたりました。
GHQによる戦後の医療制度改革
軍医制度の消滅と国立病院への転換
1945年の敗戦により、陸海軍は解体され、軍医制度も消滅しました。陸軍病院・海軍病院は厚生省所管の国立病院へと衣替えし、多くの旧軍医は公職追放の例外措置もあって国立病院の医師として引き続き勤務する道を得ました。
医療体制が疲弊し深刻な医師不足に陥っていた日本に対し、GHQ(連合国軍総司令部)は医療制度・医学教育の抜本的改革を進めます。
医学教育制度の近代化
GHQ主導の改革により、以下のような大きな転換が行われました。
- 戦時中に乱立した医学専門学校の整理・統合 → 大学(医学部)に昇格できるもの以外は原則廃止。
- 医学部課程の6年制化 → 体系的な教育課程の整備と教育水準の底上げ。
- 医師国家試験制度の導入 → 医師免許取得には国家試験合格が必須となり、資格付与の客観性・統一性が確保。
- インターン制度 → 卒業後、医師国家試験受験までの1年間を無免許研修(インターン)として病院で実習。
その後、インターン制度は研修医の待遇などをめぐり批判が高まり、1968年(昭和43年)の医師法改正で廃止。以降は現在につながる「医学部卒業→国家試験→免許取得後の臨床研修」という流れに再編されました。
戦後の厚生省・文部省と医系技官の役割
厚生省における公衆衛生・医療行政の中核
戦後の日本では、厚生省(現・厚生労働省)の医系技官が公衆衛生行政の中核を担いました。
- 全国への保健所設置、感染症対策、母子保健の充実。
- 国立病院の再編・運営への関与(旧陸軍東京第一病院は「国立東京第一病院」として再出発し、小児科・産婦人科の新設や人間ドックの導入など先駆的な医療を展開)。
- 1961年の国民皆保険実現に向けた制度設計でも中心的役割を果たしました。
こうした取り組みを通じて、厚生省の医系技官は戦後日本の医療水準向上に大きく貢献しました。
文部省における医学教育行政
旧文部省(現・文部科学省)でも、医系技官が医学教育改革を牽引しました。
- GHQの指導を踏まえ、医学部カリキュラムの6年制化・標準化を推進。
- 大学医学部間の教育水準の格差是正、教員の再教育などを実施。
- 高度経済成長期には、医師偏在や医師不足に対応するため、厚生省と協議しながら医学部新設・定員増を進める。
1960年代後半〜1970年代前半にかけて国公私立の新設医学部が相次いだ背景には、医系技官を含む行政側の強い意図がありました。彼らは新設医学部のカリキュラムや附属病院整備にも技術的支援を行い、地域医療を支える医師の養成に尽力しました。
さらに、医師国家試験の出題基準や合格基準の調整にも関与し、厚生省と連携して医師免許制度の運用を支え続けています。
自衛隊医官不足と防衛医科大学校の設立
自衛隊発足と医官確保の困難
1954年(昭和29年)、自衛隊が発足すると、防衛庁(当時)は陸海空自衛隊の衛生部門で働く医官(医師幹部)を安定的に確保する必要に迫られました。
- 発足当初は旧軍出身者や民間医師の直接採用で対応。
- しかし、民間医療との待遇差やキャリア上の不安感から志望者が伸びず、慢性的な医官不足が続く。
- 防衛庁自身が「医官の確保という点で社会的僻地に置かれている」と分析するほど、状況は深刻でした。
対策として、1955年(昭和30年)には「自衛隊貸費学生制度」(のちの自衛隊奨学生制度)が創設され、大学の医学部・歯学部学生に対して月額給付を行い、卒業後に一定期間自衛隊医官として勤務する仕組みが導入されました。しかし、処遇面で民間より見劣りするなどの理由から、なお十分な人材確保には至りませんでした。
自前の医官養成機関としての防衛医科大学校
行き詰まりを打開するために構想されたのが、「防衛庁直轄の医科大学校」を設立し、自前で医官を養成するという方策でした。
- 中曽根康弘防衛庁長官らの下で検討が進められ、厚生省・文部省などと調整。
- 卒業生に医師国家試験受験資格を与えることを前提に、防衛庁独自の医学教育機関を設置する方針が固まる。
- 1973年(昭和48年)、防衛庁設置法の改正により防衛医科大学校の設立が認められる。
1974年4月、埼玉県の航空自衛隊入間基地内の仮校舎で第1期生の教育がスタートし、翌1975年には所沢市の現在地に本校舎が完成します。併設の高等看護学院(のちの看護学科)も開設され、防衛医療を担う人材の総合的な養成体制が整えられていきました。
防衛医科大学校と「医師である幹部自衛官」
防衛医科大学校の使命は、法律上明確に「医師である幹部自衛官となるべき者を教育訓練すること」と規定されています。つまり、防衛医科大学校は「医師であり、同時に自衛官でもある医系技官=医官」を計画的に養成する場です。
- 6年間の医学科課程で、一般の医学教育に加え、自衛官としての基礎訓練・防衛医学教育を実施。
- 在学中、学生は特別職国家公務員(自衛隊員)として扱われ、学費・生活費は公費で賄われる。
- その代わり、卒業後は一定期間(医学科の場合9年間)自衛隊医官として勤務する義務を負う。
この仕組みにより、防衛医科大学校は毎年約80名の医官候補を安定的に輩出し、陸海空各自衛隊の病院や部隊に送り出してきました。結果として、戦後長らく続いた自衛隊の医師不足は大きく改善され、自前で医系技官を養成できる体制が確立されたといえます。
おわりに―医系技官養成の歴史から見えるもの
明治から昭和に至る日本の医系技官養成の歴史は、つねに「時代の要請」と密接に結びついてきました。
- 明治維新後:近代軍医制度と公衆衛生行政の出発。
- 帝国陸海軍期:軍医・歯科医将校の制度化と、大学・医専と連携した養成システムの構築。
- 戦時下:医専増設などによる医師養成の拡充と、公衆衛生行政を担う医系技官の台頭。
- 戦後:GHQ主導の医学教育改革と、厚生省・文部省における医系技官の活躍、国民皆保険や医学部増設による医療体制の再建。
- 冷戦期:自衛隊医官不足という課題に対して、防衛医科大学校という“自前の医官養成機関”の設立という解が提示される。
こうした流れを踏まえると、日本の医系技官養成は単に「医師を増やす」ことではなく、「国家としてどのような医療・公衆衛生・防衛医療を実現するか」という大きな課題への回答として発展してきたことが分かります。
現代の医療・防衛・教育を考えるうえでも、この歴史をふり返ることは、自分たちの足元にある制度の前提や限界を理解するための重要な手がかりになるでしょう。
