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産業医科大学設立の経緯と田中角栄の地域分散政策

産業医科大学病院

産業医科大学病院

産業医科大学(産業医大)は1978年に北九州市(福岡県)で開学した、労働衛生・産業医養成のための専門的な医科大学です。しかしその設立計画には、「当初は大阪に設置される予定だったが田中角栄首相の鶴の一声で北九州に変更された」というエピソードがあります。ここでは、このエピソードについて、大学設立の経緯や田中角栄の理念や政策と関連づけて説明したいと思います。

地方の医療は、都会と比べて「人・施設・アクセス」の三つが特に弱く、その結果として医療の量と質の両方で不利益が生じやすいことが大きな問題点です。また、大学病院や高度急性期病院、専門センターなどは都市部に集中し、地方では高度な検査機器や専門診療科を備えた病院が限られます。

当初の設置候補:大阪案の有力視

産業医科大学は高度経済成長期における労働者の安全と健康確保の必要性から構想された大学です。労働省(現・厚生労働省)が所管する公設民営大学として企画され、労働災害の多い工業地帯で産業医を養成する目的がありました。当初、この大学の設置先には全国の複数の自治体が名乗りを上げ、北九州市は全国で5番目に誘致に手を挙げていました。

その後、候補地は条件面の検討を経て絞り込まれ、大阪府和泉市と北九州市の二箇所が最終候補として残りました。設置準備委員会の委員長を務めた日本医師会会長・武見太郎氏は当初「大阪での設置」を有力視していたとされます。また正式決定前には「産業医科大学、大阪に決定」と報じる新聞記事まで出ていたとも伝えられています。実際、北九州市側の関係者によれば、大阪案が新聞に載ったことで「上京しての要請活動はもうやめよう」との声も出たほど、大阪への設置が既定路線と見られていた状況でした。

田中角栄の介入:北九州誘致への鶴の一声

こうした中、当時の田中角栄首相が最終判断を下し、産業医科大学の設置場所は北九州市に決定しました。この逆転劇の背景には、北九州市議会議長・松尾武氏(故人)ら地元関係者の粘り強い直談判と、田中角栄の「地方重視」の政治理念がありました。昭和48年(1973年)頃、松尾議長は首相在任中の田中角栄に直接掛け合い、次のような言葉で地方誘致の必要性を訴えたといいます。

「真ん中があるというのは端っこがあるから。端っこには何時(いつ)日が当たるんですか」

「真ん中」(大都市圏)ばかり優遇されて地方という「端っこ」はいつまでも日の目を見ないではないか、という率直な問いかけです。田中角栄首相に対してこう直談判した結果、まさにこの言葉通り田中の鶴の一声で産業医科大学の設置先は北九州に決まったと伝えられています。当時北九州市議会議長秘書だった人物の証言によれば、「新聞で大阪に決まったと出たが、それでも上京して直談判に行った」松尾議長の執念が実り、「産業医科大学誘致の夢」が北九州で叶えられたのです。

この決定には、地元選出の国会議員や各界の協力も大きな役割を果たしました。松尾氏とともに、三原朝雄代議士(当時。三原朝彦氏の父)や田中六助代議士、民社党の池田議員らが党派を超えて国への働きかけに奔走し、地元では土地提供者や地域住民が誘致運動に協力しました。最終的に、産業医科大学は1978年4月に北九州市八幡西区医生ヶ丘の地に開学し、現在まで産業医育成の拠点として地域医療・労働衛生に貢献しています。

田中角栄の理念と地域分散型政策との関連

産業医科大学の誘致逆転劇は、田中角栄の掲げた「地方重視・地域分散型」の国家戦略と軌を一にするものでした。田中角栄は1972年に総理大臣に就任すると自身の著書『日本列島改造論』で「国土の均衡ある発展」をスローガンに掲げ、大都市への一極集中を是正して地方を活性化する大規模政策を提唱しました。実際、同年10月の所信表明演説でも「日本列島の全域にわたって国土の均衡ある利用をはか」るために全国高速交通網の整備や工業の全国再配置、地方都市の育成に取り組む決意を述べています。田中にとって、東京や大阪といった「真ん中」だけでなく「端っこ」である地方に光を当てることは、国家の繁栄に不可欠な信念でした。

具体的な施策として田中内閣は、地域医療格差の是正にも力を注いでいます。「一県一医大構想」と呼ばれる政策は第2次田中角栄内閣が1973年に提唱したもので、全国すべての都道府県(および政令指定都市)に医学部・医科大学を設置する計画でした。この構想のもと、1970年代半ばには全国で医学部新設ラッシュが起こり、田中内閣期の1974年だけでも5校の医学部が新設されています。北九州市も当時、政令指定都市でありながら独自の医科大学を持っていなかったため、その空白を埋める形で産業医科大学の設立が位置づけられました。言い換えれば、産業医科大学の北九州誘致は「一県一医大」政策の一環として、地域への医学教育資源の分散配置を進めた事例でもあったのです。

田中角栄自身、新潟県という地方出身の政治家であり、中央と地方の格差是正に強い思い入れがありました。彼の推し進めた日本列島改造計画は、新幹線・高速道路の全国展開や企業の地方誘致によって「経済と人の流れを変える」壮大な試みでした。産業医科大学の北九州設置は、この理念が教育・医療分野にも現れた一例です。田中は医療・教育インフラも東京や大阪ばかりでなく地方に拡充させることで、地域社会の活性化と均衡ある国づくりを目指したと言えます。

おわりに

「産業医科大学は当初大阪に予定されたが、田中角栄の方針転換で北九州に設置された」いうエピソードは、複数の証言や記録によって裏付けられています。産業医科大学誘致に尽力した北九州市議会議長・松尾武氏が残した「端っこにはいつ陽が当たるのか」という言葉は、田中角栄の地方創生理念と共鳴し、国家プロジェクトの方向性を動かす原動力となりました。田中の最終判断により産業医科大学は地方都市・北九州に根付き、その地の産業医療発展と地域振興に大きな役割を果たしてきました。

このエピソードは、教育・医療インフラの配置に政治的リーダーシップが与える影響力を示す興味深い事例です。都市部への過度な集中を避け、地域に人材育成の場を創出しようとした田中角栄の政策判断は、結果的に地方に新たな大学が誕生する契機となりました。「どこに大学が設置されるか」はその地域の将来に関わる重要な問題であり、国の理念や政治の動きが密接に影響することが読み取れます。産業医科大学の設立秘話は、日本の教育・医療政策が地域社会と結びついた歴史の一コマとして、現在の地域活性化や大学の在り方を考える上でも示唆に富むものと言えます。

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