明治維新期、日本は近代国家を目指し欧米から様々な知識人を招きました。その中でも医学分野では「お雇い外国人」と呼ばれる西洋人教師たちが、日本の近代医学教育の礎を築く大きな役割を果たしました。彼らは東京医学校(現在の東京大学医学部)をはじめ各地で医学教育や医療制度の整備に尽力し、西洋医学の科学的手法や医療理念を伝えています。ここでは、明治時代に日本に医学を伝えた主要なお雇い外国人の功績と、その教育理念が現代の医学部入試や医療者育成に与えた影響についてまとめます。歴史を知ることで、医学部受験生と保護者の皆様にも、日本の医療の原点と精神を理解し、信頼できる医療人を育てる決意を新たにしていただければ幸いです。
目次
主な医学分野のお雇い外国人とその功績
明治期に招聘された医学分野の外国人専門家には多くの人物がいますが、ここでは特に代表的な数名を取り上げ、その功績を概観します。
ヨハネス・ポンペ・ファン・メルデルフォールト(オランダ)
オランダ海軍軍医であったポンペは、幕末の安政年間(1857年)に来日し、長崎で日本初の本格的な西洋医学教育を開始しました。1857年に長崎奉行所の一室で12名の蘭方医たちに対し講義を始め、西洋医学だけでなく物理・化学など基礎科学も教えています。言葉の壁に苦労しつつもオランダ語の教材を工夫し、学生にノートを書き写させ通訳を介して理解を深める方法で熱心に指導しました。
特に解剖学教育に力を注ぎ、日本で一般に忌避されていた人体解剖を長崎奉行に粘り強く説得して許可を得て、1859年に自ら死刑囚の遺体解剖を行ったことは有名です。また1858年の長崎のコレラ流行時には、多数の患者を治療しながら学生を指導し、翌1859年には日本初の西洋式医療教育施設である小島養生所(現在の長崎大学医学部の前身)を設立しました。5年間の滞在で延べ1万3,600人の患者を治療し、61名の卒業生を送り出しました。
ポンペの教え子には幕府医官出身の松本良順(のち初代陸軍軍医総監)、長崎出身で後に衛生行政を創始した長与専斎(「衛生」という日本語を考案)や、東京医学校の初代校長となり順天堂医院を開設した佐藤尚中らがいます。こうした功績から、ポンペは「日本の西洋医学教育の父」と称されます。彼が創設に関わった長崎の医学校は後に「精得館」と改称され、明治以降も長崎医学校として近代医学教育の中心となり、現在の長崎大学医学部へと発展しました。
ウィリアム・ウィリス(イギリス)
ウィリアム・ウィリスは幕末から明治にかけて活躍したイギリス人医師です。グラスゴー大学・エディンバラ大学で医学を修めた優秀な医師で、1862年に駐日英国公使館付き医師として来日しました。来日早々、薩摩藩士による生麦事件やその報復として起きた薩英戦争(1863年)で負傷者の治療に尽力し、日本側とも交流を深めます。その後、明治維新の戊辰戦争(1868年)では敵味方を問わず負傷兵の治療に当たり、人命尊重の医師としての信念を貫きました。このような人道的姿勢は日本人に強い感銘を与え、ウィリスは明治政府や薩摩藩から厚く信頼されるようになります。
戊辰戦争終結後の1869年、32歳のウィリスは薩摩藩の推薦により東京・神田和泉町に新設された医学校兼病院(後の東京大学医学部付属病院)の初代院長に就任しました。これは旧幕府の医学所を引き継いだ官立医学校で、ウィリスはここで西洋医学の教育・診療の両面を指導します。その翌年には、西郷隆盛の推挙で薩摩藩(鹿児島)に設立された鹿児島医学校(現在の鹿児島大学医学部)の校長兼病院長となり、近代医学教育を地方にも広めました。鹿児島ではわずか5ヶ月間で3,000人以上の患者を診療する一方、多くの医学生を熱心に教育したといいます。ウィリスはイギリス流の臨床実証医学を重視し、病床(ベッドサイド)での臨床指導を頻繁に行いました。また、「病気は治療するより予防する方が重要である」との考えから、当時サツマイモ中心だった日本庶民の食生活に警鐘を鳴らし、酪農の奨励や食肉処理の衛生改善など公衆衛生面でも先進的な提言を行っています。こうしたウィリスの指導を受けた鹿児島医学校の門下生には、日本初の医学博士となり東京慈恵医院(現・東京慈恵会医科大学)を創設した高木兼寛がいました。高木は後年、国民病と恐れられた脚気の原因が栄養の欠乏によるものと突き止めた人物(「ビタミンの父」とも称される)ですが、その発見の背景には師ウィリスから受け継いだ予防医学の精神や栄養への着目があったとされています。ウィリス自身の「人を救うためには敵味方の別なく治療する」という博愛精神と「予防こそ最大の治療」という理念は、日本の医療者の倫理観にも大きな影響を与えました。
ヘンリー・フォールズ(イギリス)
ヘンリー・フォールズはスコットランド出身の医師で、明治時代に来日した医療宣教師です。グラスゴー大学で医学を学び、あのジョゼフ・リスター(消毒法を創始した外科医)の薫陶も受けたフォールズは、1870年代にキリスト教伝道団の医師としてインド経由で日本へ赴任しました。東京築地に築地病院(東京一致医学校)を設立し、貧困層への診療や医学生の指導にあたるとともに、日本初期の近代的な私立病院経営にも貢献しました。
フォールズの最大の功績は、指紋による個人識別法の発見です。彼は診療の傍ら考古学にも興味を持ち、東京で古代の土器片に残る指紋模様に着目したことをきっかけに、人間の指紋が個人ごとに異なり不変であることを突き止めました。1880年、フォールズはイギリスの科学雑誌ネイチャーにこの発見を発表し、指紋を犯罪捜査に活用できる可能性を示したのです。これは犯罪科学捜査の分野に飛躍的進歩をもたらすもので、実際に後年イギリスや世界で指紋認証が採用される端緒となりました(残念ながら彼自身はその功績の正当な評価を生前には得られず、没後になってようやく「指紋法の先駆者」と称えられることになります 。)。またフォールズは1886年に東京で聖路加病院(現・聖路加国際病院)の設立にも関わった人物です。※聖路加国際病院は正式には1902年に米国人医師テューラーによって再興されますが、フォールズはその前身である無料診療所の創始者として位置付けられています。フォールズの活動は、西洋医学の臨床だけでなく科学的探究心と社会貢献の精神を日本にもたらしました。彼の姿勢は、医学は人々を救う実践であると同時に、新しい知見を追求する科学であるということを示しています。
エルヴィン・フォン・ベルツ(ドイツ)
ドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツは、明治9年(1876年)に明治政府に招かれて来日したお雇い外国人で、日本の近代医学発展に最も大きな影響を与えた人物の一人です。ベルツは東京医学校(東京大学医学部の前身)の教授として内科学・病理学・生理学・産科婦人科学など幅広い分野を担当し、1882年からは精神医学の講義も受け持ちました。特に精神医学に関しては日本で初めて体系的に教えた教師となり、日本の精神科医療の草創にも貢献しています。ベルツは講義だけでなく自ら病理解剖を行い、当時の日本医学界に最新の西洋医学を直接伝授しました。彼が27年にも及ぶ長きにわたり学生たちに教授した内容は、日本の医学教育の基礎を築き、その後の医学の発展へ確固たる土台を与えました。またベルツは皇室とも深く関わり、明治天皇や皇族の侍医(主治医)も務めています。学術的にも業績豊富で、例えば蒙古斑(新生児の青いあざ)を学会に報告してその名称を広めたり、日本各地の温泉の効能を研究して国際的に紹介したりしました。長年の功績によりベルツは日本政府から勲一等瑞宝章を授与されています。ベルツの滞日期間は実に28年にも及び、お雇い外国人全体でも最長の部類でした。彼の尽力のおかげで日本の医学教育水準は飛躍的に向上し、「日本近代医学の父」とも称されます。
ユリウス・スクリバ(ドイツ)
ユリウス・スクリバはベルツと同時代に来日したドイツ人外科医です。ベルツと共に東京大学医学部で外科学の教授として近代外科学の指導にあたり、多くの日本人外科医を育成しました。スクリバは明治11年(1878年)頃に来日し、東大で外科診療と教育を担ったほか、東京府医院(現・都立駒込病院)などでも外科手術を行っています。彼はジョゼフ・リスターの提唱した**消毒法(無菌操作)**を日本に紹介し、外科手術の安全性向上に寄与しました。当時、日本人にとって近代的な外科手術は未知の分野でしたが、スクリバは熱心に技術指導を行い、帝国大学病院で多くの手術を執刀したと伝えられます。ベルツの胸像が東大病院構内に建つ隣には、スクリバの胸像も並んでおり、その献身が現在も顕彰されています。1905年にスクリバは東京で生涯を終え、日本に骨を埋めたお雇い医師として記録されています。その門下からは、日本人初の本格的外科医たちが育ち、近代外科学の礎が築かれました。スクリバの貢献により、日本の外科領域も急速に西洋水準へと発展したのです。
日本の医療制度・医学教育への影響
以上のような外国人教師たちの活躍により、明治期の日本の医療制度と医学教育は劇的に近代化されました。彼らがもたらした主な影響をいくつか挙げます。
近代的な医学校・病院の創設: ポンペが設立を主導した長崎の小島養生所や、ウィリスが率いた神田の医学校兼病院・鹿児島医学校など、西洋式の医学校・教育病院が各地に誕生しました。これらは現在の大学医学部や附属病院の起源となり、多くの医師を育成しました。東京医学校(のちの東大医学部)は明治7年(1874年)に予科2年・本科5年の計7年制のカリキュラムを整備し、ドイツ語で本格的な医学教育を開始しています。このように国が主導して統一的な医学教育制度を敷いたことは、日本の医学水準を全国的に底上げする原動力となりました。
医学教育のドイツ化と専門分化: 明治初期、東京の医学校では当初イギリス人のウィリスらによって英語・蘭語経由の教育が行われましたが、1870年代に入ると政府は医学教育の方針をドイツ流に転換しました。明治4年(1871年)には一時東京医学校を閉鎖して教育制度を再構築し、以降はドイツ医学をモデルにカリキュラム編成や教科書翻訳、人材招聘が行われました。その結果、解剖学・生理学・内科学・外科学など専門領域ごとに外国人教師や留学帰国組の日本人医師が教授に就任し、各科の専門教育が確立していきます。ベルツやスクリバらドイツ人教師団のもと、日本の医学は臨床と基礎の両面で飛躍的な発展を遂げました。彼らが伝えた最新知識により、伝統的漢方医学から科学的エビデンスに基づく西洋医学への移行がスムーズに進み、日本はアジアでいち早く近代医学を自国のものとしたのです。
医療制度・公衆衛生の整備: お雇い外国人の直接の働きだけでなく、彼らの教え子となった日本人医師たちが明治政府の中枢で医療行政を整備したことも重要です。ポンペの弟子・長与専斎は衛生行政の礎を築き、検疫制度の導入など公衆衛生の充実に貢献しました。高木兼寛は海軍軍医として脚気予防のため食事改革を行い、日本人の栄養改善を推進しています。またウィリスに学んだ佐藤尚中は順天堂医院を開院し、国内の医療ネットワーク構築に尽力しました。このように、外国人から学んだ知識や理念をもとに近代的な医療制度(軍医制度・病院制度・衛生行政など)が構築されていきました。明治14年(1881年)には日本最初の近代的医師免許制度も施行され、医学教育を修めた者だけが「医術開業試験」に合格して医師となれる制度が整えられています。これも西洋の資格制度をモデルにしたもので、医学教育と医療制度が一体となって近代国家にふさわしい医療体制が整備されたのです。
医学用語と文献整備: 西洋医学導入に伴い、多くの医学用語が翻訳され定着しました。例えば解剖学や生理学といった用語はこの時期に定められたものです。お雇い外国人や留学経験者の日本人により教科書・辞書類の編纂も進められ、明治20年代までには主要な医学書が和訳出版されました。またジェームズ・カーティス・ヘボン(ヘボン式ローマ字で有名な米国人医師)は幕末期に日本初の和英対訳の医学書(辞書)を刊行していますが、こうした基礎も踏まえつつ明治政府は近代医学教育用の教材を整えました。医学専門用語の整備により、現在の医学部入試問題や講義でも使われる日本語の医科学用語が確立したのです。
お雇い外国人の理念と現代の医学教育への影響
西洋医学を伝えた外国人医師たちの教育理念・医療観は、現代の医学教育や医療者育成にも脈々と受け継がれています。彼らが示した価値観をいくつか振り返り、医学部入試や現代医療教育への影響を考えてみましょう。
患者第一の精神: ポンペが弟子たちに語った「医師はもはや自分自身のものではなく、病める人のものである」という言葉 。は、医師の使命を端的に表しています。自分の利益や名誉より患者の救済を優先するこの倫理観は、その後の日本の医師教育に深く根付きました。現在でも多くの医学部が教育理念に患者中心の医療や医の倫理を掲げています。例えば長崎大学医学部では、今なおポンペのこの言葉が建学の精神として刻まれ、新入生に伝えられています。医学部入試でも面接や小論文などを通じて医療への熱意や倫理観が重視される傾向がありますが、それは医師たる者、まず患者に尽くすべきだという歴史的教訓に基づくとも言えるでしょう。
科学的探究心と論理的思考: 西洋医学導入時に外国人教師たちが強調したのは、経験や権威に頼るのでなく科学的実証に基づいて考える姿勢でした。フォールズが指紋の唯一性を見出したエピソードは、既成概念にとらわれず観察と実験で真理を追求する科学者精神を物語ります。またベルツやスクリバらは解剖学的検証や臨床統計を重視し、日本人学生に論理的に考える医学を教えました。現在の医学部入試では物理・化学・生物などの理科や数学における論理問題が重視されますが、それは単に知識量を見るだけでなく科学的思考力を持った人材を選抜する意図があります。近代医学の黎明期に培われた実証的・論理的思考こそ、現代医学教育の根幹であり、それが入試段階から問われているのです。
基礎医学の重視: ポンペは当時の弟子たちに解剖学や生理学、化学・物理といった基礎を徹底的に教え込みました。ウィリスも臨床に直結する知識だけでなく、病理や公衆衛生の視点を学生に与えています。このように基礎医学の重要性が強調された結果、日本の医学部教育は6年間の中で前半に基礎科学をしっかり学ぶカリキュラムになっています(明治期の東京医学校でも予科・本科を通じ基礎から応用まで段階的に教育する制度でした 。)。医学部入試においても、生物・化学などの科目で生命現象の基礎原理を問う良問が多く出題されます。これは、基礎を理解してこそ良い臨床医になれるという、明治以来の教育方針の延長線上にあると言えるでしょう。
国際的視野と語学: お雇い外国人教師の講義は、初期にはオランダ語や英語、のちにはドイツ語で行われました。日本人学生は苦労しながらも語学を習得し、外国文献を読み解いて最新医学を学ぶ素地を築きました。これは国際的視野と語学力の重要性を示すものです。現代においても、医学はグローバルな科学であり、英語の論文を読み国際会議で議論できる人材が求められます。最近では医学部入試において英語の配点が高かったり、大学在学中に海外留学の機会を設けたりするところも増えています。これは、明治の先人たちが異文化の中で学び協働した経験が脈々と受け継がれ、世界に開かれた医療者を育てようとしている現れでしょう。
歴史から学ぶ受験生へのメッセージ
明治時代、日本に近代医学を根付かせたお雇い外国人たちの奮闘と情熱、それを受け継いだ日本の先人たちの努力によって、現在の私たちは高度な医療を当たり前のように享受できています。この歴史は、医学を志す皆さんにいくつかの大切な示唆を与えてくれます。
まず、医学への情熱と使命感です。ポンペやウィリスは異国の地で言葉や文化の壁を乗り越え、「人を救いたい」「日本の医療を発展させたい」という使命感で行動しました。
彼らの姿から、医師という職業は単なる仕事ではなく、社会への奉仕と貢献の精神が求められることが分かります。医学部を目指す皆さんも、この崇高な使命感を胸に刻み、自らの志望動機を磨いてください。入試勉強の辛い時期にも、「将来患者さんのためになる知識を身につけているのだ」という意識を持てば、大きな励みになるはずです。
次に、基礎をおろそかにしない姿勢です。先人たちは解剖の一つひとつ、実験の一つひとつを重ねて医学を築き上げました。基礎的な知識の積み重ねなしに最新医療は成り立ちません。受験勉強でも同様に、教科書の基本原理や原則を大切にすることが合格への近道です。流行の参考書やテクニックも有用ですが、根本の理解があってこその応用力です。科学的な思考力も、日々の勉強の中で鍛えていきましょう。
さらに、広い視野と探究心を持つことも大切です。フォールズのように診療の傍ら新しい発見に挑戦したり、ベルツのように異分野(温泉療法や人類学)にも関心を広げたりした例から、医師には幅広い好奇心と学習意欲が求められることが分かります。受験科目の知識だけでなく、歴史や文化、社会の問題にも目を向けてください。それが将来、患者さんの背景を理解する力や、新しい医療を生み出す創造力につながります。
最後に、この歴史は「信頼される医療人になる」という決意を新たにしてくれます。お雇い外国人たちが示した患者への献身、科学への真摯な態度は、現代の医療人に求められる「信頼」の原点です。私たち医学部専門予備校も、単に受験テクニックを教えるだけでなく、こうした医療の精神を次世代に伝え、本気で信頼される医療人を育てることを使命としています。当予備校で日々研鑽する皆さんには、ぜひ明治の偉人たちの物語を心の糧にして、自分自身の成長につなげてほしいと願っています。
