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英語の時代に、なぜ病院で「ドイツ語っぽい言葉」を聞くのか
日本の医療は、研究・論文・国際学会の言語としては英語が主流です。それでも現場では、ときどき ドイツ語由来(またはドイツ語経由) の言葉が顔を出します。
たとえば、退院を「エント」、所見なしを「オーベー(o.B.)」、縫合を「ナート」と呼ぶ、といった具合です。こうした言葉は、単なる“古い慣習”ではなく、日本の近代医学教育の形成史と深く結びついています。
ここでは、
- ドイツ語が医学の「標準言語」になった歴史的経緯
- 英語化が進んでも用語が残った理由
- 現場・文献で見かける具体例(科別の“あるある”+患者向け言い換え) を、一般の方にも分かる形で整理します。
歴史的経緯:ドイツ語が定着した「決定的な瞬間」
明治初期、「ドイツ医学の採用」が制度として進んだ
近代日本の医学教育は、明治初期に大きく組み替えられます。東京大学医学部の公開年表には、1869年(明治2)に相良知安・岩佐純が医学取調の役目に就き、ドイツ医学の採用に尽力したこと、その後に大学東校へつながる改称や、ドイツ人教師招聘の動きが記録されています。
なぜドイツ医学だったのか(当時の“強さ”と政治・制度)
日本の医学史では、当時のドイツが感染症研究などで世界的に注目されていたこと、そして政府の決定でドイツ医学が主流になり、東大や陸軍へ浸透していった一方で、海軍はイギリス医学を実践した、という整理が示されています。
英語化しても残った理由:言葉が「慣習」になると強い
戦後以降、英語の比重は高まり、医学部の外国語教育も見直されていきました(例:2016年度以降のカリキュラム転換の報告)。
それでもドイツ語由来語が残りやすかった理由は、主に次の3つです。
記録・申し送りで「短い略語」が強い
o.B.(所見なし)や n.b.(特記なし)などは、忙しい現場ほど置き換えにくい代表例として解説されています。
教育言語が、そのまま現場の共通語になった
ドイツ語で学んだ世代が教育・診療の中心にいた期間が長いほど、言葉は“型”として残ります。医者語(医療者同士の社会的方言)という位置づけ自体も、医学界新聞の連載冒頭で明確に述べられています。
“職業方言”としての機能(ただし倫理的な注意点も)
「ムンテラ」が Mund+Therapie の和製ドイツ語で、近年はインフォームド・コンセント等へ置き換える病院が増えている、という説明があります。
効率の一方で、患者中心医療の観点から「言い換え」が求められる語もある、というのが現在地です。
「てにはドイツ語」とは何か:混交が生んだ独特の医療言語
日本の医療言語史では、ドイツ語の単語を日本語語順で並べ、助詞でつなぐような混交が「てにはドイツ語」として論じられます。これは ドイツ語で医学教育が行われるという特殊な環境で生まれたもの、と出版社解説で整理されています。
また、医療者間で使われるドイツ語隠語の造語法を扱った研究もあり、単なる語彙の借用だけでなく、院内コミュニケーションの仕組みとして検討されています。
科別の“あるある”:ドイツ語が残りやすい領域
ここからは具体例です(※病院・世代で差があります)。
病棟・看護記録:退院・排泄・病歴聴取
- エント(退院):Entlassen 由来。英語圏のENTは耳鼻咽喉科で意味が違う、という注意も示されています。
- ハルーン(尿)/コート(便):ドイツ語由来で、記録では Hr / Kot と書くことがある、という説明があります。
- アナムネ(問診・病歴聴取):Anamnese 由来(ギリシャ語起源のドイツ語として説明)。
検査・所見:短い略語が残る
- o.B.(ohne Befund)=所見なし、n.b.(nichts Besonderes)=特記なし、さらに fast(ほとんど)などの使い方が解説されています。
整形外科:シーネ/ギプスと「てにはドイツ語」的表現
- シーネ(Schiene)=副子として用語集に整理があります。
- ギプス(Gips)=石膏で、キャストとの併用史まで含めた解説があります。
- 整形外科の例文として、Seit、ohne Veranlassung、Lendenschmerzen、Verlauf beobachten などの混交が示されています。
産婦人科:カイザー(帝王切開)
- カイザーが Kaiserschnitt 由来だと説明されています。
外科・処置:ナート(縫合)
- ナート(Naht)=縫合として、英語での言い換え(suture など)も含め解説されています。
画像・放射線:レントゲン/シャウカステン
- レントゲンが発見者名に由来し、英語ではX-rayであること、さらに日本で「XP」と略す慣習があることが述べられています。
- シャウカステンはX線写真を見る照明器具として、国語辞典で定義されています。
患者さん向けに“伝わる”言い換え:そのまま使える例文集
医療者側の略語・俗語は、患者さんにとっては不明瞭になりがちです。以下は、現場でよくある言い方を 説明文として安全な日本語にした例です(ムンテラの位置づけは「和製独語」である点も含めて確認されています)。
- 「o.B.です」→「検査では特に異常は見つかっていません」
- 「n.b.です」→「特に問題になる所見はありません」
- 「エント予定」→「退院の予定です」
- 「ハルーン増えた」→「尿の量が増えています」
- 「コート出てない」→「便が出ていません」
- 「アナムネ取ります」→「これまでの病気やお薬などを確認するために問診します」
- 「ナートします」→「傷を縫って閉じます」
- 「シーネで固定」→「添え木(副子)で動かないように固定します」
- 「カイザー」→「帝王切開です」
- 「ムンテラ」→「これから病状と治療方針をご説明します(疑問は遠慮なくどうぞ)」
付録1:◎(現役度高め)20語ミニリスト(医療者→患者向け言い換え)
※「現場で出会いやすい」例として、複数資料で確認できるものを中心に。
- カルテ → 診療録
- エント(Entlassen)→ 退院
- o.B.(ohne Befund)→ 所見なし/異常なし
- n.b.(nichts Besonderes)→ 特記なし
- アナムネ(Anamnese)→ 問診/病歴聴取
- ハルーン(Harn)→ 尿
- コート(Kot)→ 便
- ナート(Naht)→ 縫合
- シーネ(Schiene)→ 副子(固定)
- ギプス(Gips)→ ギプス固定/キャスト
- カイザー(Kaiserschnitt)→ 帝王切開
- レントゲン → X線検査
- シャウカステン → 画像を見るライト(ビューワ)
- マーゲン(Magen)→ 胃(※造語例に注意)
- ムンテラ(和製独語)→ 病状説明/IC
- ステルベン/ステる(Sterben)→ (医療者間俗語)「亡くなる」※説明には不向き
- o.B. の Befund → 所見
- fast → ほとんど(例:fast o.B.)
- Verlauf → 経過(例:経過観察)
- Punktion(プンク)→ 穿刺(針で刺して採る検査)
付録2:ドイツ語由来・医者語「辞典パート」(100語超:読み物としての一覧)
以下は「現場語として語られる」「辞書・用語集で由来が示される」「医学界新聞の連載で実例として扱われる」など、出典で確認できるものを中心にまとめた“付録”です。
(A:一般語化/B:現場語・略語/C:科別/D:造語・混交)
A. 一般語化している語(研究・教育を含む)
- アレルギー(Allergie)
- アレルゲン(Allergen)
- シャーレ(Schale)
- プレパラート(Präparat)
- シャウカステン(Schaukasten)
- ゾンデ(Sonde)
- レントゲン(X線:名称の由来として)
B. 病棟・申し送り・検査(略語が残りやすい)
- エント/Entlassen/ENT
- ハルーン/Harn/Hr
- コート/Kot
- アナムネ/Anamnese
- o.B.(ohne Befund)/Befund(所見)
- n.b.(nichts Besonderes)
- fast(ほとんど)
- genau(正確に/詳しく)
C. 処置・手技・器具(科別で残りやすい)
- ナート(Naht:縫合)
- カイザー(Kaiserschnitt:帝王切開)
- シーネ(Schiene:副子)
- ギプス(Gips:石膏→固定具)
- ギプスシーネ(Gips+Schiene)
- ゼク/セクチオン(Sektion:解剖)
- ザルベ(Salbe:軟膏)
D. 「てにはドイツ語」的混交・語形成(読み物として面白い領域)
例文に出てくる混交(整形外科の例)
- Seit(〜以来)
- ohne Veranlassung(誘因なく)
- Lendenschmerzen(腰痛)
- Coxalgie(股関節痛)
- Verlauf beobachten(経過観察)
- zunehmen(増悪)
- Gangstörung(歩行障害) (これらは“整形外科の医者語”例文中で示されています。)
“語形成”の例(-heit / -keit)
- krank → Krankheit(病気)
- matt → Mattigkeit(倦怠)
- müde → Müdigkeit(疲労)
- allgemein(全身の) (接尾辞による名詞化として解説されています。)
E. 病名・略称:K(Krebs)やTBなど
「臓器K」:Magenkrebs など
- MK(Magenkrebs:胃癌)
- LK(Lungenkrebs:肺癌)
- MMK(Mammakrebs:乳癌)
- UK(Uteruskrebs:子宮癌)
- OKK(Oberkieferkrebs:上顎癌)
- ZK(Zungenkrebs:舌癌)
- KKK(Kehlkopfkrebs:喉頭癌)
- EK(Ösophaguskrebs:食道癌)
- GBK(Gallenblasenkrebs:胆嚢癌)
- PK(Pankreaskrebs:膵癌)
- RK(Rektumkrebs:直腸癌) (いずれも連載回で、略語と元綴り・和訳がまとめて提示されています。)
結核・転移の略称
- テーベー(Tuberkulose:結核)
- ミリテー(Miliartuberkulose:粟粒結核)
- ダルテー(Darmtuberkulose:腸結核)
- Darm(腸)
- メタ(Metastase:転移) (略称・由来とともに解説されています。)
F. “和製”・誤解注意(知識としては重要)
- ムンテラ(Mund+Therapie:和製独語)
- 「ザー」(SAHを擬似ゲルマン訛りで読む、という“和製俗語”の可能性)
結論:残るのは「歴史の痕跡」だが、説明は「わかる言葉」で
- ドイツ語が残った最大要因は、明治期に ドイツ医学が制度として採用され、教育言語が現場言語になったことです。
- その後の英語化の中でも、短い略語・記録語・器具語は置換されにくく、点在的に残りました。
- 一方で、患者さんに通じにくい語(あるいは和製語)もあるため、現代の医療コミュニケーションでは 言い換えの意識が重要です。