戦前の日本において、最高学府として君臨した「帝国大学」は、現在の日本国内にある7校(東京、京都、東北、九州、北海道、大阪、名古屋)だけではありませんでした。当時の統治下にあった朝鮮半島のソウル(京城)と、台湾の台北にも設置され、計9校の帝国大学が存在していました。ここでは、これら「外地」に置かれた帝国大学医学部の歴史と、その極めて高い入試難易度について客観的に解説します。
目次
九つの帝国大学と「外地」の設置背景
帝国大学は、国家の指導的立場に立つ人材の育成と学術研究を目的とした国立総合大学です。1920年代から30年代にかけて、日本政府は統治地域における高等教育の拡充を図り、以下の2校を設立しました。
- 京城(けいじょう)帝国大学(1924年設立): 現在の韓国・ソウル。
- 台北(たいほく)帝国大学(1928年設立): 現在の台湾・台北。
これらは、後に設立された大阪帝国大学(1931年)や名古屋帝国大学(1939年)よりも早い、あるいは同時期の設立であり、当時の国策において極めて重要な位置付けにありました。
医学部の設置と研究の特色
両大学において、医学部は設置当初から中心的な役割を担っていました。
京城帝国大学 医学部(1926年開設)
現在のソウル大学校(SNU)の前身です。当時の朝鮮半島における近代医療の頂点として機能しました。
- 拠点病院: 広大な敷地に最新鋭の設備を備えた附属病院が整備され、東アジア屈指の臨床・研究環境を誇りました。
- 学術的地位: 日本本土の帝大から優秀な研究者が招聘され、基礎医学から臨床まで高度な教育が行われました。
台北帝国大学 医学部(1936年開設)
現在の国立台湾大学(NTU)の前身です。
- 熱帯医学の研究: 地理的特性を活かし、マラリアなどの熱帯病研究において世界的な研究拠点を形成しました。
- 教育の伝統: 台湾社会における「医師」への高い社会的評価の礎となり、その学問的伝統は戦後の台湾医学界へ直結しています。
入試制度と難易度の実態
当時の帝国大学、特に医学部への入学は、現代の大学入試とは比較にならないほどの狭き門でした。
旧制高等学校という高いハードル
戦前の学制では、帝国大学に入学するためには、まず旧制高等学校(一高、二高など)を卒業しなければなりませんでした。
- 中学校(5年制)から旧制高校(3年制)への進学: ここで極めて厳しい選別が行われ、合格者は同年代の数パーセントに過ぎない「超エリート」に限られていました。
- 医学部への進学: 旧制高校卒業生の中でも、成績上位者が医学部を志望するため、学力レベルは必然的に最高位に達していました。
外地帝大特有の難しさ
京城帝大や台北帝大の入試では、現地(朝鮮・台湾)の優秀な層と、日本本土から渡ってきた優秀な学生が限られた定員を争いました。
- 競争率: 募集人数が少なかったこともあり、実質的な難易度は東京帝大や京都帝大に次ぐ、あるいは匹敵するレベルに達していたと記録されています。
- 選抜の厳格さ: 語学(独語、英語、ラテン語等)や数学、自然科学において極めて高度な知識が要求されました。
終戦と戦後の歴史的役割
1945年の終戦により、両大学は日本の帝国大学としての歴史を閉じました。しかし、その施設、機材、そして教育システムはそれぞれの国に引き継がれました。
- 継承: 京城帝大はソウル大学校へ、台北帝大は国立台湾大学へと発展解消し、現在もそれぞれの国で不動のトップ大学として君臨しています。
- 人的貢献: 卒業生たちは戦後、韓国や台湾の医療近代化を牽引する指導者となり、公衆衛生の向上や医学研究の発展に寄与しました。
現在への道のり
戦前のソウルと台北に存在した帝国大学医学部は、単なる統治機関の一部ではなく、当時の最高水準の科学と教育が投じられた場所でした。その入試難易度の高さは、当時の社会構造が生んだエリート選別を象徴するものであり、そこで培われた医学の知見は、今日の東アジアの医療基盤を形作る重要な一翼を担っています。