昭和という激動の時代、一人の政治家が日本地図を塗り替えました。「今太閤」と呼ばれた田中角栄です。彼が1972年に著した『日本列島改造論』は、戦後日本の国土形成における最大のバイブルとなりました。
しかし、その「改造」の真の目的は、コンクリートを流すことだけではありませんでした。その根底には、「人間尊重」という強い福祉への情熱がありました。
日本列島改造論:国土を一つの「家」にする
田中角栄は、高度経済成長による「都市の過密」と「地方の過疎」を日本の病根だと見抜いていました。
「日本列島の全域にわたって国土の均衡ある利用をはかり、過密、過疎の同時解消を目ざさなければならない」(1973年1月27日 第71回国会 施政方針演説より)
彼の構想は、新幹線や高速道路という「血管」を全国に張り巡らせ、工業団地を分散させることで、地方でも都会と同じように働ける場所を作ることでした。彼は「東京ばかりを肥え太らせて、地方を枯らしてはならない」と繰り返し説き、日本全体を一つの生命体として再生させようとしたのです。
一県一医大構想:医療の民主化
ハードウェアとしての「列島改造」が進む中、田中が最も心を砕いたソフトウェアが、国民の命を守る「医療」でした。当時、医師の数は圧倒的に足りず、特に地方には「医学部すらない県」が15以上も存在していました。
1973年、田中内閣は「一県一医大構想」を閣議決定します。
「福祉の向上と人間尊重を基本理念とし、国民の誰もが、どこの県に住んでいても一定の高度な医療を受けられるようにする。これが政治の原点である」
この信念に基づき、1973年からの10年間で、宮崎、滋賀、山形、愛媛など、医学部のなかった県に次々と国立医科大学が新設されました。当時の官僚たちが「予算が足りない」と難色を示す中、田中は「人の命に関わることに、金の問題を持ち出すな」と一喝したという逸話も残っています。
「福祉元年」への挑戦
田中角栄が首相を務めた1973年は、後に「福祉元年」と呼ばれます。一県一医大構想の推進と同時に、彼は以下の大胆な政策を打ち出しました。
- 70歳以上の医療費無料化(現在は形を変えていますが、当時は画期的なセーフティネットでした)
- 年金額の大幅な引き上げ(「物価スライド制」の導入)
彼は演説でこう語っています。
「年寄りが病気になっても、金の心配をせずに医者にかかれる。そんな当たり前のことができない国は、先進国とは言えない」
これは単なるバラマキではなく、誰もが等しく「健康で文化的な生活」を送るための、国家としての投資だったのです。
2026年の視点から見る、その「功」と「罪」
田中角栄が撒いた種は、半世紀を経て大きな樹となりました。しかし、私たちが生きる2026年の現在、新たな課題も浮き彫りになっています。
- 【功:救われた無数の命】全国に医大と附属病院が設置されたことで、地方の救急医療体制は劇的に向上しました。日本の世界一の平均寿命は、この「どこでも医者にかかれる体制」が支えています。
- 【罪:持続可能性の壁】少子高齢化が進み、地方の医大を維持するためのコスト、そして都市部への医師の偏在は、今や深刻な社会問題となっています。田中が作った「ハコ」を、どうやって次の世代に繋ぐか、その知恵が試されています。
政治は「生活」である
田中角栄はよく「政治は生活だ」と口にしました。彼が推し進めた「一県一医大構想」は、単なる教育施設の建設ではなく、「生まれた場所によって、受けられる医療に差があってはならない」という、究極の平等主義の現れでした。
現在、私たちは医師不足や地域医療の崩壊といった困難に直面しています。しかし、そんな今だからこそ、かつて一人のリーダーが示した「日本中を一つの街のように、どこにいても安心して暮らせるようにする」という熱いビジョンから、令和の今でも学ぶべきものはあるはずです。